「ホッとしたのもつかの間、また大きな難問にぶっつかりました。

ある特定の状態の下では、カーボンシールにピッティングという虫食い現象ができて、性能が落ちてしまうのです。

特定の状態というのは"ドクター・モード走行"といわれている都会地のノロノロ運転のことです。

夜間に急患に呼ばれた年配の開業医が、まだエンジンが十分にあたたまらないうちに始動をかけ、ごく短かい距離を慎重に運転してすぐ停まる、また次の患者のところへ短距離を走って停まる、という状態によく似ているから"ドクター・モード走行"というのでしょう。

このような運転を続けるとピッティングができてガスがもれやすくなるのです。

これもカーボンの顕微鏡的な組織観察を続けて、ついに克服しました。

完成したのは昭和45年で、マツダさんと共同研究をはじめてから6年かかりました」

街中を走る乗用車や中古車トラックには致命的な問題ですが、これも時間をかけてクリアしていきます。

川添氏の筆者への談。

「私がアメリカに赴任した昭和34年のころ、一番困ったのは、日産自動車とかダットサンとかいって説明しても、当時の米国東海岸では知名度がさっぱりなかったことです。

日産自動車の代理店をやりたい、という人がいても、銀行は日産自動車というメーカーのことをなにも知らないから、その店へ融資してくれません。

今の日産の中古トラックの知名度を考えると信じられない話です。

そこで本社に頼んで、横浜や吉原の工場の写真や、事業報告書を送ってもらい、それを翻訳して、日産自動車はこんなに立派な信用のある会社だ、ということを説明して歩きました。

また、日産自動車が戦前の昭和11年に、当時デトロイト市に本社のあった自動車メーカーのグラハム・ページ社の機械設備を買収して、日本でグラハムページ・セダンを製造したことや、戦後の27年には英国のオースチン社と技術提携してオースチン・ケンブリッジ・セダンを製造したことなどを話して、現地の人たちになるべく日産自動車に親しみを持ってもらうように努力しました」

「当時、米国に輸入されていた車の中では西独のフォルクスワーゲンが最も評判がよく、月に4万~5万台は売れていたのではないか、と思います。

それに比べ、日産のダットサンは私が担当した東部の35州を合わせても月40台からせいぜい50台くらいです。

西独の1000分の1という数字ですから全くお話になりません。

初めて月に100台売れた時は、家内が赤飯を炊いて家中で祝ってくれました。

うれしかったですね」

「今後の方針として、自動車からの排出ガスの規制については、

1.アイドリング時のCO規制を速やかに実施する。

2.HCの規制についてはNOとの関連において万遺漏なきを期し、米カリフォルニア州での轍を踏まぬよう更に基礎的研究を行う。

3.排気黒煙、煙臭など人の感覚に不快を与えるものは速やかに排除する。

以上の方策が当面効果的な具体策だが、自動車の無害化を更に進めるため、今回の調査では米国でもまだ実験の域を出ていないリアクターなどの研究についてもわれわれとしては積極的に取り組まねばならない。

一般的関心の深い大都市でのスモッグについては、オキシダントの測定法およびその内容について今後とも調査を進め、問題のホトケミカルスモッグの有否に関する調査を速やかに完成すべきであろう」

今はトラック中古車だって排ガス規制をクリアしていなければ走ることができません。

大分よくなったというべきでしょう。

川添氏の活躍について『アメリカ日産20年の軌跡』(J・B・レイ著、秋山康男訳、三嶺書房)にも次のように書かれている(大要)。

「彼(川添氏)はニューヨークのクィーンズ大通りのガソリンスタンドの裏にある小さな倉庫に販売本部を置き、10人足らずの人を雇った。

サービス・マネジャーもいなかったが、サービス問題がふえてくると川添氏の才能がすぐ役立った。

彼は(米国に)到着早々、ダットサンがガソリン洩れで地方のディーラーが直せなかったため、バージニア州ノーフォークへ行かねばならなかった時のことをこう述べている。

『ディーラーは、ダットサン1台を駐車できる修理場一つしか持っていない。

水力ジャッキはあるが工具は何もない。

私は修理場に1台のセダンを持ち込んで、工員はどこにいるのか聞いた。

業者がいうには"彼は昨日どこかへいって、工具もみんな持っていった"と。

日産のディーラーが一流ではないことは分ったが、こんなに悪いとは知らなかった』

ガソリンスタンドから工具を借りて修理はしたが、クランク・ハンドルはルノーのディーラーから借りた(ダットサンのスターターは動かなかった)。

川添氏は夜中まで働いていたが、その時やっと工具が戻ってきた。

そして彼は川添氏からダットサン整備の特訓を受けたのだった」

今の日本車は中古車トラックでも世界中で修理できます。

それはこういった地道な努力があったからなのですね。

「頑固な性格でしたが、半面、極めて情熱的で、歯車や自動車の研究、開発には文字通り情熱を傾けていました。

『オートモ号』は空冷式でしたが、これは当時の自動車としては画期的だったそうです。

『オートモ号』の製造に全精力を傾けたためか、昭和の初期に、白楊社を閉鎖してからは新しい仕事はせず、戦後も多くの友人たちからいろいろな事業への協力を要請されましたが一切断わりました。

頑固というのか、あるいは世間知らずの独歩型というのか、とにかく組織の中で動くタイプではなく、自分の考えで独立独歩する性格だった、と思います」

また白楊社時代、豊川順弥の下で勤務していた、前述の村瀬三郎氏は語る。

「新しい車の試運転には必ず自分でハンドルを握り、東京・巣鴨の工場を出ると当時の板橋街道を直進、板橋警察署前の二叉路を左折、川越街道に入り、練馬、田無から所沢と回り、納得のゆくまで試験をし、改良された。

試運転が不成功に終わることも、ご自分の目でハッキリたしかめなければ決して承服されませんでした」

こういった人たちが今の頑丈な日本車、中古トラックを実現したのでしょう。

豊川順弥について孝夫人、長男の良一氏、次男の慶氏は次のように語る。

「少年のころから機械好きなうえ、非常な勉強家でした。

蔵前工業(東京工業大学の前身)に首席で合格しましたが、しばらく通学しているうちに『学校で教えていることは全部知っている。学校へいくより、自分で勉強する方が上だ』といってやめたそうです。

のちに米国のマサチューセッツ工科大学にも聴講生として通いました。

自動車を造る前には工作機械やジャイロコンパスの研究開発に専念し、とくに歯車については世界的にすぐれた業績をあげています。

自動車を造った会社の白楊社という社名は漢詩の一節『白楊、悲風多し』からとったもので、最初からつぶれるのを覚悟していたようです」

こういった人々が努力したおかげで、今日の日本の中古車トラックには適正な価格で輸出できる土台があるのです。

また、地元でも豊島区南長崎で町会長、PTA役員、防犯協会役員などを務め、地域の人びととのコミュニケーションや奉仕活動にも力を注ぎました。

こうした人との出会いを大切にしてきたことが、倉庫建設に際して大いに役立ったのでした。

たとえば、倉庫用地を提供してくれた農家の地主は、長年の取引きで信用を得ていた常陽銀行の紹介でした。

また、「農家の土地に倉庫を建設してもらって賃借料を支払う方式にした方が手っ取り早い」という知恵を与えてくれた倉庫業者は、Z社長の実直な人柄を見込んでくれてのことでした。

また、倉庫を建て配送センター業務をやるという構想を練っているころ、その準備の一つとして、中央シャープ販売の専務に、「うちの息子を商品管理部で働かせて下さい」とお願いし、それに快諾を得ることができたのも、永年の誠実な仕事ぶりに対する評価ともいえます。

Z運輸という会社の創業者であるZ社長は、大正9年3月7日、茨城県那珂郡那珂町大字田崎の農家の次男として生まれました。

地元の尋常小学校高等科を卒業後、国鉄水戸駅の駅員、中島飛行機製作所勤務を経て昭和17年に陸軍第三七部隊に入隊。

終戦後は故郷に戻り、木材販売および製粉工場を自営しました。

しかし、やがて食糧・麦類の統制が解除され、また大型工場も再建されて小麦粉は買い取り制となり、新たに五億円の資金が必要となって、やむをえず同28年に廃業しました。

こののち上京し、中古車トラック運送業勤務、海産物販売業自営などを経て昭和41年6月にZ運輸を設立し、50年代半ば頃に貸切り専業から兼業経営を志したのでした。

こうしたいくつかの事業を営んできたなかで、Z社長は、"事業経営は信用と人"という経営信条を会得し、とくに人と人との出会いを大切にしてきました。

そのため、一と六の日に市が立ちました。

人々は馬の背に商品をくくりつけて輸送し、ここを訪れました。

だから今も、一日市や六日市といった地名が残っているます。

「七つの谷それぞれ十里の奥から人や馬が集まってくる」ことを意味する"七七十里"、
その繁栄を活写する「出馬千頭入馬千頭」といった言葉も折に触れて語り継がれています。

また近代以前、京・大坂から船便で届いた文物は、三陸海岸で陸揚げされたのち、地方政府のある内陸部へ移送される必要がありました。

その中継点として重要な役割を果たしたのも遠野でした。

つまり遠野は、自ら米を自給しながら、盛岡・花巻など内陸と三陸海岸とを結ぶ交通の要衝に位置する"北上の商業センター"としての地位を確立するとともに、
"駄賃づけ"と呼ばれた輸送サービスと、それに不可欠な馬匹とを供給することによって繁栄したのである。

だから、交通路もこの盆地に集中した。

西が石川ぞいに花巻へ通じる街道をはじめ、北は立丸峠を経て宮古へ、東は笛吹峠か仙人峠を経て釜石へ、南は赤羽根峠を経て気仙沼へ通じる街道が、すでに近代以前に切りひらかれていました。

中古トラックなんかも配送しやすかったのかもしれませんね。

中古車トラックや自動車の登場により、遠野という地域に暮らしている人たちにどんな影響を及ぼしたのかを考えて見ます。

そのためには、歴史的に培われた土地柄を捉え直しておく必要があります。

それを『北上の文化ー新・遠野物語』をもとに粗描してみます。

まず旧藩時代の禄高が一万二千石、盛岡藩が十万石であったことを思うと、遠野が、岩手県では比較的まとまった耕地に恵まれていたことが分ります。

だが、伝来の"南部馬"と山林の産物を除くと、その生産力は、せいぜいが自家消費をまかなう程度でしかありませんでした。

たび重なる飢饉の襲来がそのことを示しています。

にもかかわらず、遠野は山奥には珍しき繁華の地でもありました。

内陸の農民は塩や魚を、三陸海岸の漁民は農作物や炭を、そしてマタギ(猟師)や炭焼きなどの山地民は米と塩を、それぞれに必要としたからです。

彼らは、生産物を遠野に集結して交易したのである。