川添氏の筆者への談。
「私がアメリカに赴任した昭和34年のころ、一番困ったのは、日産自動車とかダットサンとかいって説明しても、当時の米国東海岸では知名度がさっぱりなかったことです。
日産自動車の代理店をやりたい、という人がいても、銀行は日産自動車というメーカーのことをなにも知らないから、その店へ融資してくれません。
今の日産の中古トラックの知名度を考えると信じられない話です。
そこで本社に頼んで、横浜や吉原の工場の写真や、事業報告書を送ってもらい、それを翻訳して、日産自動車はこんなに立派な信用のある会社だ、ということを説明して歩きました。
また、日産自動車が戦前の昭和11年に、当時デトロイト市に本社のあった自動車メーカーのグラハム・ページ社の機械設備を買収して、日本でグラハムページ・セダンを製造したことや、戦後の27年には英国のオースチン社と技術提携してオースチン・ケンブリッジ・セダンを製造したことなどを話して、現地の人たちになるべく日産自動車に親しみを持ってもらうように努力しました」
「当時、米国に輸入されていた車の中では西独のフォルクスワーゲンが最も評判がよく、月に4万~5万台は売れていたのではないか、と思います。
それに比べ、日産のダットサンは私が担当した東部の35州を合わせても月40台からせいぜい50台くらいです。
西独の1000分の1という数字ですから全くお話になりません。
初めて月に100台売れた時は、家内が赤飯を炊いて家中で祝ってくれました。
うれしかったですね」