2011年2月アーカイブ

「頑固な性格でしたが、半面、極めて情熱的で、歯車や自動車の研究、開発には文字通り情熱を傾けていました。

『オートモ号』は空冷式でしたが、これは当時の自動車としては画期的だったそうです。

『オートモ号』の製造に全精力を傾けたためか、昭和の初期に、白楊社を閉鎖してからは新しい仕事はせず、戦後も多くの友人たちからいろいろな事業への協力を要請されましたが一切断わりました。

頑固というのか、あるいは世間知らずの独歩型というのか、とにかく組織の中で動くタイプではなく、自分の考えで独立独歩する性格だった、と思います」

また白楊社時代、豊川順弥の下で勤務していた、前述の村瀬三郎氏は語る。

「新しい車の試運転には必ず自分でハンドルを握り、東京・巣鴨の工場を出ると当時の板橋街道を直進、板橋警察署前の二叉路を左折、川越街道に入り、練馬、田無から所沢と回り、納得のゆくまで試験をし、改良された。

試運転が不成功に終わることも、ご自分の目でハッキリたしかめなければ決して承服されませんでした」

こういった人たちが今の頑丈な日本車、中古トラックを実現したのでしょう。

豊川順弥について孝夫人、長男の良一氏、次男の慶氏は次のように語る。

「少年のころから機械好きなうえ、非常な勉強家でした。

蔵前工業(東京工業大学の前身)に首席で合格しましたが、しばらく通学しているうちに『学校で教えていることは全部知っている。学校へいくより、自分で勉強する方が上だ』といってやめたそうです。

のちに米国のマサチューセッツ工科大学にも聴講生として通いました。

自動車を造る前には工作機械やジャイロコンパスの研究開発に専念し、とくに歯車については世界的にすぐれた業績をあげています。

自動車を造った会社の白楊社という社名は漢詩の一節『白楊、悲風多し』からとったもので、最初からつぶれるのを覚悟していたようです」

こういった人々が努力したおかげで、今日の日本の中古車トラックには適正な価格で輸出できる土台があるのです。